ゆめまぼろし

朝、洗濯物を干した。畳を掃いて、窓を拭いた。むやみに六ぺん柏手を叩き、何年も前、鎌倉かどこかのお寺でいただいてきた白檀を焚いた。白檀だろうか。たぶんそうだ。よい匂いがする。夜の匂いだ。きのう買ったまぐろのあらを血抜きした。てきとうに刻み、水に浸す。三十分ほどおき、まっかに染まった水を替え、また浸す。それを三べんくりかえして、鍋にうつす。酒とみりん、砂糖と醤油で煮付ける。落とし蓋をしてから、生姜もすこしいれてやる手筈だったことをおもいだした。沸騰するあわが落とし蓋のうえでたのしそうにおどっている。手遅れだった。三十分か四十分ほど煮詰めた。仕上がったまぐろはてらてらとつやめいていた。ちいさなくずれをつまむと、甘塩っぱくて、いのちのなごりが匂って、おいしかった。タッパに詰めて冷ますあいだ、鍋や食器を片づけた。水音。蛇口から流れ出していった。ふと窓を見ると、物干し竿につられたものたちがぐらぐらとゆれていた。風がつよい。濡れた手をタオルで拭い、窓の外に出た。ベランダの柵に寄りかかり、肺に溜まった息をゆっくりと吐き出した。

風が心地よかった。あつくもなく、つめたくもない。おとのない風が頬をなで、髪をさらう。絹のゆびさきがうなじをあそび、だらだらとあくびがちでいたシャツのすそから入り込むと、へそをくすぐって逃げていった。わらいごえがした。つられてわらった。かれらは柵の向こうの木々でとびまわってあそんでいる。かろやかなつまさきが枝のさきではねた。とうめいの襟足が葉のひとつひとつにくちづけていた。そのようなあいさつをしてみたかった。柵の下縁に足をかけた。ぐっと力を込めると、肋骨が柵の上にのる。柵をつかむ両腕をつっぱり、身をのりだした。風がふいた。わらっていた。肺に溜まった息をゆっくりと吐き出した。かれらが手をふっている。きこえた。 ゆっくりとしゃがみ込んだ。 めがさめて、ひどく草臥れていた。

Author: 柾千樫