客体

戸を叩いて欲しかった。おまえの手の甲で、やわらかくまろいその皮ふで、鏡のうらをうちならし、その戸を叩いてほしかった。草臥れて傾いだ頸のぴんとはりつめたまっすぐを、おまえのめはじっとみつめていた。微笑して、ただ微笑して、なにごとにも微笑するおまえのめがやはりおだやかに微笑して、のろのろと頸すじをなでていった。おまえのくちびるはふるえていた。ぽっかりとあいたのどくびから、ころころと鳥の啼くようなこえがしていた。だらりとからだの両脇にたれたふたつぽっちの腕が、苦しくも勇敢にもちあげられて、果敢なるけいれんをもってして戸を叩くときを夢みていた。いちど、ただいちど、おまえがそのようにしてさえくれれば、わたしはおまえのそばに辿りつけた。こちらがわではなくなって、割れた鏡のおもてに、抜け殻がうちすてられて、わたしはおまえを抱きしめてやれた。微笑しなくてよいように、おまえの貌を奪ってやれた。おまえの腕がにわかにちからづよく私の背を抱き、ひとのように慟哭する声をききながら、微笑してやることもできた。だから、いっぺんだけでいい。どうか戸を叩いてほしかった。おまえの海のような髪に、びっしりと錆びたうなじに、わたしはただ、祈りたかった。それだけだった。

Author: 柾千樫