逆説

こころが凪いでいくのをかんじます。もうだれも、わたしのことをしらないのです。わたしであったもののことしかしらないのです。わたしを暴こうとするひとは、もうだれも、ここへたどりつけない。

鏡のうちかわで、あのひとが呼んでいます。——そちらではない、そちらではない。それはぼくがすることだ。ぼくがなすべきことだ。ちいさなアリス、ぼくのアリス、もどっておいで。よいこだから——。鏡のおもてをけんめいにさぐって、だらだらと伸びてしまった手足をこんがらがして、おおきくなってしまったあのひとがぺしゃぺしゃとわらっている。おかわいそうにとおもうけれど、だきしめてさしあげることはできない。きっと、わたしのことをすっかりと忘れてしまったほうがよいのです。あんまりおぼえているものだから、もう糸のいろまできめてしまって、わたしの安堵をじぶんのもののように錯覚しているのですね。かわいいひと。やさしいひとです。愚かなひとです。なめらかな海のおとがきこえると、鏡のむこうかわへといって、このてでほっぺをつつんでさしあげたいとおもう。置き去りにしたのはわたしのほうです。だって、だれもかれもわたしを暴こうとする。なかみなんてこれっぽっちものこっていないことにきづかれてしまって、あのひとがくるしいおもいをするなんて、どうでしょう、かわいそうではありませんか。どれほどつとめても、どれほどまなんでも、しかたのないことでした。底に穴があいている。あのひとは、必死なのです。こぼれおちていく砂といっしょにわたしがおちていってしまうようで、せめて砂のあるうちに、糸をきっちと綴じてしまいたいと、日ごと鏡のおもてにもたれる。

ですから、こうしました。こころが凪いでいくのをかんじます。鏡のかけらがこのひとを傷つけてしまわないよう、ていねいにとりだしました。もうだれも、わたしのことをしらないのです。のぞきこむひとに、わたしは微笑します。とじたはこのなかはからっぽなのだと、きっと信じてくださいますね。海のおとだけがきこえるように、ちいさなてで、ほっぺを、耳を、つつんでさしあげました。わたしのアリス、よいこだから。

Author: 柾千樫